はじめに
私たちの日々の生活は記憶と忘却の連続です。いったん覚えたと思っていたことも、あっという間に忘れてしまいます。でもそれこそが、私たちの「脳」を守るべく健全なシステムなのです。「脳」は情報過多にならないように、日々入力される情報を取捨選択して、優先される情報だけを記憶として定着させ、その他の情報は削除する(忘れる)ことによって、また新しい情報を受け入れられる状態にして、日々、「脳」全体を更新しているのです。だから、「忘れる」ことは、「覚える」ことと同じくらい大切なことなのです。
そうは言うものの、私たち人間は社会のルールの中で生活をしていて、忘れてしまうことによって、自分も他人も苦しめてしまう、そんな「物忘れ」が重なれば、やはりそれを改善したいと願うのではないでしょうか。今回は、たかが「物忘れ」、されど「物忘れ」について考えていきたいと思います。
1.「物忘れ」は病気? ~「認知症」との関連~
「認知症」とは、何らかの原因(アルツハイマー型認知症、レビー小体型認知症、脳血管性認知症、前頭側頭型認知症)によって、脳神経が損傷したために、さまざまな認知機能が障害され、社会生活を送ることが困難になった状態です。
平成24年(2012年)の厚生労働省の調査によると、65歳以上の高齢者総数3079万人のうち、認知症患者数は約462万人(7人に1人(有病率15.0%))、MCI(正常でもない・認知症でもない(正常と認知症の中間)状態の者)の有病者数は約400万人(8人に1人(有病率推定値13%))と報告されています。こうした高齢化に伴う認知症患者の増加への対応として、厚生労働省は関係省庁と共同で「認知症施策推進総合戦略(新オレンジプラン)」に取り組んでいます。ちなみに、筆者も、認知症サポーター養成講座を受講・修了し、認知症サポーターとなっています(目印としてオレンジリングを持っています)。
「物忘れ」は、認知症の予備軍であるMCIで良く見られる症状であり、浦上克哉氏(鳥取大学医学部教授 日本認知症予防学会理事長)は、MCIの状態で予防活動を行えば1割が回復、4割が現状で留まるので、早期発見・早期対応が重要であると述べています。
また、「物忘れ」は、甲状腺疾患、精神疾患、低血糖症を含む様々な病気の症状、薬の副作用として表れてくることもありますので、現在起こっている「物忘れ」を引き起こしている原因の早期発見、改善への早期対応のためにも、信頼できる医師・医療機関でメディカルチェックを受けることをお勧めします。
2.「物忘れ」は誰でもあるの?
「物忘れ」は前述したように、MCIを含む様々な病気の症状として表れることがありますが、ここでは「忘れてしまう内容」に着目したいと思います。
下記に一般的に言われている「認知症による物忘れ」と「単なる物忘れ」について忘れる内容の違いをご紹介いたします。
<認知症の物忘れ> | <単なる物忘れ> |
体験のすべてを忘れる | 体験の一部を忘れる |
物忘れの自覚がない | 物忘れの自覚がある |
親しい人やよく行く場所がわからなくなる | 親しい人やよく行く場所は忘れない |
性格に変化がある | 性格は変わらない |
自分の今いる場所や時間がわからなくなる | 自分の今いる場所や時間はわかる |
<社会保険出版社 監修 鈴木隆雄 独立行政法人 国立長寿医療研究センター研究所長より引用>
ただ、注意しなくてはいけないのは、実際には「認知症による物忘れ」と「単なる物忘れ」が混在している方々も多くいらっしゃることです。
もし、ロボットであれば、正常な状態と故障状態を明確に分けて考えることができますが(正常な状態=0 or 故障した状態=1)、生物である私たちの脳は多くの神経細胞の集合体であり(脳全体では千数百億個、大脳には数百億個)、かつ、各々の神経細胞が平均数万個のシナプス(情報の受け渡しが行われる部分)を持ち、複雑で巨大なネットワークを形成しながら、物を覚えたり、忘れたりしているので、正常な状態と故障した状態を明確に区別することは極めて困難です(0 or 1ではなく、between 0 and 1を行き来していると考えて下さい)。
また、生物学的観点から考えますと、生物(細胞)の生命は永遠ではありません。それゆえ、生老病死は避けることはできません。神経細胞の老化現象とも言える「物忘れ」は、誰にでも起こり得る自然現象です。
3.「物忘れ」仕組みは?~記憶のメカニズム~
私たちの記憶は下記の順序で、情報の蓄積・抽出が行われています。
短期記憶(*海馬)➡感情(*扁桃核)を伴う記憶➡長期記憶(側頭連合野)に移行・膨大な記憶が蓄積➡作業記憶(前頭前野)必要な情報の抽出
「物忘れ」と関係しているのは作業記憶であり、膨大な情報量が蓄積されている長期記憶に優先順位をつけ、今、必要な情報を抽出する機能です。即ち、「物忘れ」とは一度覚えた記憶が消えてしまっているわけではなく、作業記憶が適切に機能していないことにより、今、必要な情報を抽出できない状態(「思い出せない」状態)だといえます。さらに細胞レベルで考えるならば、前頭前野の神経細胞、神経細胞間の情報伝達に何らかの障害が起こっていることが推測できます。
*海馬:側頭葉の奥に存在し、小指くらいの大きさで新しい記憶の貯蔵装置としての役割を担っている。
*扁桃核(偏桃体):側頭葉内側の奥に存在し、情動反応の処理と記憶において主要な役割を担っている。
4.「物忘れ」は改善できるの?
筆者が子供の頃は、神経細胞の発達に時期が決まっていて、成人になってから、新しい細胞がつくられることはなく加齢に伴って機能が失われていくと教わりました。しかし、最新の脳科学の研究において、年老いたマウスにおいても新しい神経細胞がつくられていること(Okada & Ohira(2017))、加齢に伴う脳容積の変化は部位によって違いがあること(Bagarinao et al., 2018)、良質な食事と脳容積は関係していること(Croll et al., 2018)、有酸素運動が高齢者の脳代謝に影響を与えること(Matura et al., 2017)等々、世界中の脳科学者たちから、「脳(神経細胞)は再生産されない」という過去の研究結果を否定する報告が次々となされています。
科学が大きな進化を遂げたことによって、今までの常識が覆されることは科学の歴史では決して珍しいことではありません。私たちの健康と直結する医学の分野においても、例外ではありません。それ故、私たちは、過去の常識へのこだわりを捨てて、新たな事実を受け入れ、科学的根拠に基づいた健康への努力を積み重ねることこそが賢い生き方ではないでしょうか。
生物には必ず個体差が存在します。ゆえに、「物忘れ」は、誰でも絶対に改善できますと断言することはできません。しかし、少なくとも世界中から続々と報告される最新科学の知見から言えることは、適切な生活習慣(食事、運動、環境等々)が、「物忘れ」を改善する可能性は、十分にあり得るということです。
5.「物忘れ」改善のために今から始めたいことは?
「物忘れ」の予防・改善のためには以下の3点(①食事 ②運動 ③人的環境)のリニューアルをお勧めします。
①食事
脳は身体の中で最も栄養素を必要とする臓器です。言い換えれば、脳は最も栄養(食事)に影響を受けやすい臓器なのです。
脂質(約60%)とタンパク質(約40%)で構成されており、脂質は細胞膜、タンパク質は神経伝達物質や*受容体の材料となっています。
細胞は常に細胞膜を介して物質の出入りが行われており、細胞の健康は細胞膜が担っていると言っても過言ではありません。したがって、良質な油を摂取し、良質な細胞膜を作ることが大切になります。具体的には青魚の油、フラックスオイル(亜麻仁油)、クリルオイル(オキアミから抽出した油)のような*オメガ3が豊富に含まれている柔らかく流動性のある油を摂ることにより、神経細胞膜の柔軟性が増し、脳内の情報伝達もスムーズに行われるようになります。
タンパク質は、アミノ酸に分解されて血液中に吸収されて脳内に入り、ビタミンB群、鉄、マグネシウムが組み合わさることによって、神経伝達物質に合成されます。タンパク質(肉・魚・卵等)と一緒に、ビタミンやミネラルも摂ることが大切なのです。
その他、*抗酸化作用の高いもの(鮭・エビ・お茶・玉ねぎ・トマト・赤パプリカ・ほうれん草・ピーマン・ブロッコリー・ごぼう・黒ごま・いちご・大豆・チョコレート・スパイス・赤ワイン等)を摂って脳の細胞の老化を防ぐことも大切です。休養(心身の安定)も*活性酸素の防止につながります。
また、料理をすることにより、前頭葉が活性化される(献立を立てる材料を切って調理する盛り付けるいずれの場面でも前頭葉が活性化されていた)ことが実験的に証明されているので、前述した健康な細胞を作る具材を用いて、無理のない範囲で、料理にチャレンジして頂くことをお勧めします。
サプリメントについては、イチョウ葉エキスのように臨床的に効能(脳血流の改善、認知症の改善・予防)が既に確認されているものもありますが、気休めではなく、本格的に活用していきたいと思っている方には栄養療法に精通している医師(脳機能にも精通している医師であることが望ましい)に相談することをお勧めします。
*受容体:細胞外からやってく神経伝達物質を選択的に受容するタンパク質で、細胞膜、細胞内に存在する。
*オメガ3:不飽和脂肪酸の1つで、体内では合成できないため、食事などを通して補う必要がある。炎症、血栓を抑制したり、血管を拡張したりする作用がある。
*活性酸素:化学反応が起こりやすくなった酸素で、細胞を酸化(老化)させる。
*抗酸化作用:活性酸素の働きを抑え、細胞を守る働き
②運動
まず、最初にぜひ、ウォーキングをして下さい。
一昔前までは、気分転換によるリラックス効果だと考えられていましたが、現在は、ウォーキングのようなシンプルな運動が作業記憶(前頭前野)の容量を空け(同時に処理できる情報は5~7つだと考えられています)、空いた容量で長期記憶から情報を適切に抽出できるようになることが知られています(普段は思いつかないことがひらめいたりします)。また、前述したように、有酸素運動は脳機能を高めることもわかっていますので、いい事ずくめなのです。体力にも個人差がありますので、決して無理はせず、自分のペースで効果を実感しながら楽しんで行うことをお勧めします。
次に、毎日、手の指を動かして下さい。
カナダの脳外科医ペンフィールド氏は、人間の身体の様々な部位の機能が、大脳のどの領域に対応しているかを表す脳地図(*ホムンクルスの図)を作成しました。この図から手や指の領域がとても広いことがわかります(大脳の約3分の1が手や指のコントロールに使われています)。すなわち、指を動かすことで、「脳」の広い領域を活性化することができるのです。
①食事で、料理をして頂くことをお勧めしましたが、料理は指を動かすという作業によっても、脳を活性化しているのです。
特に、親指を動かすことが、より「脳」を活性化し、血流も上げることがわかっています。親指は5本の指の中で最も器用に動かすことができ、その時、「脳」は複雑な指令を親指に送っています。人間は親指を使ってはじめて、望む動作を行えることから、「親ゆびは‶意欲”の象徴である」と考えられています(長谷川嘉哉(2015))。
毎日、親指を動かし続けることによって、あなたの脳はより活性化され、気がついたら意欲に満ちた毎日を送っていることでしょう。
*ホムンクルス:ラテン語で小人の意
③人的環境
人間の存在には生物学的側面、心理学的側面、社会学的側面があり、この3つの側面が複雑に絡み合っています。
①食事 ②運動は、主に生物学的側面に焦点を当てて書いていますが、本当に大切なこと、すなわち①と②の基盤となるものこそ、③人的環境なのかもしれません。
「食事、運動を見直して、今日から頑張るぞ!」と決め、実行に移そうとしたその時に、「あなたの性格では無理、無理、できるわけない。それに生活習慣と脳なんて関係しているはずが無い。何をやっても脳は衰えていくだけだから。」と言われたとしましょう。もちろん、周囲の言葉など全く気にせず、ひたすら我が道を進んでいける方も中にはいらっしゃると思いますが、多くの方々は少しだけ心が折れてしまうのではないでしょうか。
扁桃核は上記のような感情を含め、「快・不快」に関わる感情を司り、意思決定において作業記憶と深く関連しています。認知症では、感情の起伏が乏しくなることで、脳の機能全体が低下すると言われています。
つまり、感情豊かな生活を送ることをお勧めしたいのです。
「快・不快」のどちらの感情も、脳に刺激を与えます。ただ、あまりに「不快」な感情が続けば、それが大きなストレスになり、「物忘れ」の改善どころか、重篤な心身の不調をもたらします。しかし、日常生活の中ではよほど特別な人的環境でない限り、「快」だけの人間関係を持つことは不可能です。
でも、安心して下さい。世界の総人口74億人です。あなたが年齢を重ねても幅広い(多様な)出会いを求め続ければ、あなたの「快」を刺激してくれる人との出会いも相対的に増え、扁桃核は「快」の感情を中心に作業記憶とのネットワークを強化し、フル回転し始めます。
ぜひ、今まで築いてきた人間関係を大切にしつつ、多くの出会いを求め、必要に応じて人間関係のリニューアルを行って下さい。
「脳」に優しい食事・運動・人間関係が「物忘れ」を改善させるベースとなるのです。
【引用・参考文献】
1)宮澤賢史: 医者が教える「あなたのサプリが効かない理由」. イーストブレス出版, 2018
2)那須由紀子: 栄養で人生は変わる. 旭屋出版, 2018
3)長谷川嘉哉: 一生使える脳. PHP新書, 2018
4)Epifanio Bagarinao, et al: An unbiased data-driven age-related structural brain parcellation for the identification of instrinsic brain volume change over the adult lifespan. Neuroimage. 169: 134-144, 2018
5)Croll PH, et al: Better diet quality relate to larger brain tissue volume:The Rotterdam Study. Neurology. 90(24): e2166-e2173, 2018
6)主婦の友インフォス(編): 物忘れ・認知症を自力で食い止め、脳力をどんどん高めるコツがわかる本. 主婦の友社, 2017
7)Matura S, et al: Effect of aerobics execise on brain metabolism and grey matter volume in older adults: result of the randomized controlled SMART trial. Transl Psychiatry. 7: e1172, 2017
8)Yuka Okada & Koji Ohira: Population dynamics of neural progenitor cells during aging in the celebral cortex. Biochemical and Biophysical Research Communications. 493: 182-187, 2017
9)橋本道男: 食事・運動と認知予防. 老年期認知予防研究会誌. Vol.20 No.4: 26-31, 2016
10)長谷川嘉哉: 親ゆびを刺激すると脳がたちまち若返りだす. サンマーク出版, 2015
11)茂木健一郎, 羽生善治: 「ほら、あれだよ、あれ」がなくなる本. 徳間書店, 2015
12)山田豊文: なぜ、マーガリンは体に悪いのか?. 健康人新書, 2015
13)主婦の友社(編): 食べて飲んで脳が若返る、物忘れが治る. 主婦の友社, 2015
14)久垣辰博: 食品成分による脳老化改善・認知症予防の可能性. 化学と生物. Vol.54 No.12: 892-900, 2013
15)山崎恒夫: 物忘れのはじまりのはじまり. Kitakanto Med J: Vol.63: 177-178, 2013
16)溝口徹: 「脳の栄養不足」が老化を早める. 青春出版社, 2009
17)鈴木はる江: 心身健康科学 5巻1号: 8-14, 2009
18)井関栄三: 物忘れの症状と病態. 順天堂医学. Vol.51: 392-396, 2005
作成者:中村 江里(臨床分子栄養医学研究会 認定カウンセラー /認定ライター)